大判例

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最高裁判所大法廷 昭和30年(み)23号 決定

主文

本件申立を棄却する。

理由

訂正申立の理由は末尾添付のとおりである。

しかし当裁判所は前記判決の内容に誤のあることを発見しないので刑訴四一七条一項により主文のとおり決定する。

この裁判は、裁判官真野毅の意見及び同岩松三郎の補足意見があるほか裁判官全員一致の意見によるものである。

本件に対する裁判官真野毅の意見は次のとおりである。

被告人竹内景助に対する電車顛覆致死被告事件につき当裁判所が昭和三〇年六月二二日言渡した判決(以下前判決という)は、一旦これを取消し白紙の状態にもどした上、さらに口頭弁論を開き、しかる後相当な判決をすべきものである、というのがわたくしの意見である。その理由の要領を述べる。

一  本件控訴判決は、刑法一二七条、一二六条三項を適用しているが、前判決はこれを是認し、違法・違憲でないとする。しかし、本件の場合に一二六条三項を適用して処断することが、罪刑法定主義の上から許されないことは、前判決中に述べたわたくしの意見のとおりである。

なお、ひとことだけを附加したい。(一)多数意見によると、一二五条の往来危険罪を犯し、本件のごとく電車の破壊または顛覆を結果として生ぜしめた者には、一二六条一項の適用があり、さらに電車の破壊または顛覆という結果(第一結果)の結果として人の死(第二結果)を生ぜしめた者には、一二六条三項の適用があるとするのである。したがって、かような順序による二重結果(元来二重結果を加重処罰する法制はきわめて異例に属する)を生ぜしめた場合には、その法定刑は死刑または無期懲役となるのである。

しかし、(二)一二五条の往来危険罪を犯し、その結果としてまず人を死に致し(それがどのように多数の人命であっても)、その後に電車の破壊または顛覆という結果を生ぜしめた者には、多数意見によるも、一二六条三項の適用がないことは明らかである。言いかえれば、電車の破壊または顛覆という結果と人の致死という結果の二つの結果が発生した場合においても、電車の破壊または顛覆という結果が人の致死という結果の原因とならず、単に両結果が併存しているに過ぎない場合ならびに人の致死という結果が原因となって電車の顛覆という結果を生じたような場合には、一二五条、一二六条一項、二一〇条(致死につき過失がある限り)の適用があるだけで、その法定刑は無期又は三年以上の懲役と五万円以下の罰金が併科さるべきものであることは、多数意見も認めざるをえないところである。

そうだとすると、多数意見を採ると、(一)の場合と(二)の場合とでは、処刑にはなはだしい権衡を失する不都合な結果を生ぜしめることになる。これはとりもなおさず、(一)の場合について前記のように二重結果加重犯を認める多数意見の正当でないことを、露出するものといわなければならぬ。それ故、一二六条三項を適用した控訴判決および前判決は、ともに違法である。

二  前判決における多数意見は、刑訴四〇八条を適用して、弁論を経ないで上告を棄却しているが、それは違法であると思う。近代の刑訴法は、刑事の訴訟手続については口頭弁論主義を基本原則としている。わが刑訴四三条一項には、「判決は、この法律に特別の定のある場合を除いては、口頭弁論に基いてこれをしなければならない」と規定している。これは、判決をするには原則として弁論を経ることを要することを宣明すると同時に、刑訴法に特別な規定が存する場合に限り、例外として弁論を経ないでも判決をすることができる旨を定めたものである。前判決で適用された四〇八条は、まさに特別規定としてこの例外を定めたものではあるが、同条は無条件にその適用を許しているのではなく、その適用には厳しい要件がつけられている。すなわち、「上告の申立の理由がないことが明らかである」ことを要件として、この要件の具わっている場合にだけ、弁論を開かないで判決で上告を棄却することを許しているに過ぎない。ところが、本件の場合にはこの要件が具わっていないから、弁論を開かないで判決をするため、四〇八条を適用したことは違法であるといわなければならぬ。

前判決における破棄意見は、二群に分れている。A群は、本件には刑法一二六条三項は適用されないことを理由とする。B群は、控訴審が書面審理だけで一審の無期懲役を死刑に変更したのは、刑訴四〇〇条但書に違反することを理由とする。その詳細は判決に述べられているが、この法律問題はいずれも、最高裁判所の大法廷には初めて現われたものであり、前者は罪刑法定主義、後者は口頭弁論主義ないし適正手続に関連する憲法問題でもある。そして相当高度の法律上の知識経験を有する法律家にとっても、内容的に判断がむずかしい法律問題である。そればかりでなくいずれの破棄意見も四または五という相当数の裁判官によって主張されている。ここで、人権の保護が完備していなかった旧刑訴時代においてさえ、法令違反を理由とする上告申立については、すべて例外なく一様に、弁論を経ないで上告を棄却することは許されなかったことを想起してみる必要があろう(旧刑訴四八条、四四二条)。新刑訴は新たに四〇八条を設けて、前述の一定の要件の下に、弁論を経ないでも上告を棄却することを許したが、その趣旨とするところは、単に訴訟の経済と能率の見地から、上告申立の理由がないことが明々白々の場合には、弁論を経る手数を省かしめるにあったに過ぎないのである。

このことは、新刑訴法は、新憲法の重要な理念である基本的人権の保障を、訴訟法的に具体的に擁護するために設けられたものであり、そのもろもろの規定が、旧刑訴法のそれに比し、格段の差をもって丁重に、人権の保障をしていることからも、容易に窺い知ることができるであろう。だから、破棄意見のいずれの一方の問題を捕えてみても、その内容の客観的性質からいっても、相当数の裁判官によって主張されている点からいっても、軽々に刑訴四〇八条にいわゆる「上告の申立が理由がないことが明らかである」とは、到底言いえない場合である。

あるいは判決手続に関する事項に違法があっても、それは刑訴四一五条にいわゆる「判決の内容に誤」があるとはいえないから、判決訂正申立の対象にはならない、という考え方もあるかも知れない。しかし、判決の面に現われていない判決手続の違法については、そういえるとしても、本件におけるがごとく「刑訴四〇八条により主文のとおり判決する」と判決面に表示されているものは、判決の内容とされていることは明らかであるから、その違法は判決訂正の申立の対象となり得るものといわねばならぬ。

さらに、前判決では、棄却意見は八名であり、破棄意見は七名であり、その差は僅かに一票である。同じ一票の差でも、一五人構成の本件では一五分の一の差に過ぎない。一三人構成の場合には一三分の一、一一人構成の場合には一一分の一、九人構成の場合には九分の一の差となるわけである。それ故、本件の一五分の一の差は、現行の最高裁判所大法廷の機構の上においては、最小限度の差ということになる。これを別の言葉でいえば、上告申立の理由があるかないかが、最大限度に疑わしい場合である。だから、本件は「上告の申立の理由がないことが明らかである」とは、常識上いうことのできないことが、明らかであるといわなければならぬ。

あるいは、破棄意見にはABの二群があるから、棄却意見との差は、その総和の八対七ではなくして、各別に見て一〇対五または一一対四である、と考える者があるかも知れぬ。しかし、これは、最高裁判所の裁判官が各自意見を述べる義務を有する新らしい制度について、十分な認識を欠くことから生ずる誤った見解であると思う。

ドイツの制度では、すべて裁判は、全裁判官の統一した理由と結論をもってなされることを要する。事件および各論点に関する各裁判官の意見は、良心的になされる限り最初の生まのものとしては、種々に分れることがあるのはやむを得ないところである。そこで、これらの異なる意見を調整して、統一的なものに仕上げる必要のためには、いわゆる論理上の諸原則に従って、順序を定めて問題ごとに評議し、多数・少数を一々表決するのである。そして、ひとたび少数と決した意見は、当該事件の次の問題の評議においては、再び述べることが許されないし、少数意見であったという理由で次の評議・表決に加わることを拒むことも許されない。もちろん、判決に少数意見を掲げることなどは到底許されていない。だから、少数意見としていかに正しい名論卓説が主張されたとしても、判決には顔を現わさず、判決後は評議の秘密にしばられることになって、少数意見は永久に暗から暗に葬り去られることになる。そして、かように順次少数意見を封じ込める人工的手段を尽くすことによって、最後に唯一の統一した理由・結論が判決として表面に現われて来る。これがドイツの制度である。

それはなるほど形式的に見れば、統一した姿の美はあり、各裁判官の一致という外形的・観念的な裁判の権威(デイグニティー)を具えることになる。これはドイツ制度の長所といえば長所である。しかし、他面からいえば、各裁判官の良心に従う生地のままの意見は、少数となった場合には、順次埋没されて影も形もなくなってしまう点、および飽くまで人工的な技巧で紛飾された統一的な意見を発見しなければならない関係上、往往安易な最大公約数的妥協に陥りやすい弊がある点は短所である。

これに反し、英米の制度では、各裁判官の意見は、自己の良心に従う生地のままの姿で、判決面に現われて来る。たとい評議の過程において、ある論点に対する裁判官の意見が少数とされた場合でも、その少数意見は、ドイツの制度におけるがごとく、埋没せしめられることはなく、判決自体においても主張することができる。裁判官各自の意見は、その判決の内容をなすものであり、裁判官各自は、当該事件を処理するにつき、必要にして十分な意見すなわち結論とその理由を述べることを要する。そしてその破棄または棄却の結論の数の多数・少数によって定まった多数結論が、いわゆるマジョリティーとして事件が処理されてゆくのである。ただにそういった判例が古くからあるというだけでなく、多くの判決および日常の評議において永年に亘って実践として実行されている。ドイツの制度では、最後の判決で統一した結論と理由を出さなければならないから、色々の異なった意見を整理する必要上、どうしても各論点ごとに表決して多数・少数を定め、順次少数意見をふるい落とすのであって、多数意見、少数意見は、主として各論点に関するのである。しかし、英米の制度では、多数意見、少数意見は、前述のように投票された結論の数について決するのが原則である。そして、その結論の多数が破棄意見である場合には、上告の申立は理由あるものとして破棄されることになる。

かような制度の下においては、判決の理由が統一されないばかりでなく、各理由につき過半数さえが存在しない場合もあり得る。また結論についても統一されず、例えばしばしば五対四というような僅かの差できめられたことを現わし、外形的な裁判の権威はいちじるしく害せられる観を呈することになる。これらの点は、この制度の短所といえば短所であると思う。しかし、裁判の真の権威はかかる外形的な統一から得られるものではなく、あらゆる批判に堪え得る立派な実質を具備することによって、はじめてかち得られるものといわねばならぬ。また各裁判官が、良心に従って最高の正義と信ずるところを有るがままの姿において卒直・忠実に表明することは、将来の司法制度の進歩発達に大きな貢献をするものといわねばならぬ。また過去・現在にわたり実際において多くの寄与をなしとげて来た。ドイツの制度は、色々人工的に刈り込んで、静的に一つの統一したものを見出そうとするにあるし、これに反し英米の制度は、統一というよりはどこまでも動的に実存するままの姿を表現しようとするにある。これはわたくしが、かつて他の事件で一寸触れたことがあるが、英米における実証的なプラグマティズム的思想の現われと見ることができるであろう(判例集三巻六号八一五頁)。実質的に見れば、ここにこそ明日へのいうべからざる貴重な発展の芽生えが包蔵されるわけである。これが英米の制度の長所である。

さて、わが裁判所法一一条は、この英米の制度を採って、「裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない」旨を定めている。すなわち、各裁判官は、事件を処理するに必要な結論およびその理由を、判決において表明することを要請されている。すでに各自が良心に従って忠実に意見を述べる以上、窮極の段階においても理由が異なりその統一ないし絶対多数が得られない場合が生ずることは、理の当然であり容易に首肯されうるところである。判決書に掲げなければならない各裁判官の意見は、最終における確定的のものであるべきであり、この以外にこれを措いて判決を形成すべき意見の存在を認めることはできないはずである。それ故、事件は各裁判官の結論の多数によって処理されることとなるべきである。手近な事例では、かの数多くの政令三二五号事件の処理において、理由についてはA群の破棄意見、B群の破棄意見、棄却意見の三通りに分れ何れも過半数に達しなかったが、結論については破棄意見が絶対多数であったから、事件は破棄の結果を見たことは、われわれの耳目になお新なところである。そして、下級審に係属する多くの同種事件については、あるいはA群の破棄意見の理由により、あるいはB群の破棄意見の理由により免訴せられ、それが検察官から上告された場合には結局原判決は正当であるとして、上告棄却の処理が数多くなされたし、また現になされつつあるのである。

そこで、再び前判決を見ると、結論として棄却意見をとる者は八名、破棄意見をとる者は七名であるから、八対七となり差は一票ということになるといわなければならぬ。

三  最後に寸言したい。本決定は、前判決をした裁判所を構成した裁判官全員で構成される裁判所でなされているが、本判決訂正申立については、かかる構成の裁判所でなく、前判決後に任命された裁判官をも加えた現在の裁判官全員で構成される裁判所でなさるべきである。

最高裁判所大法廷における裁判は、裁判官全員の構成でなされるのを本則とする。

ただ例外として「判決訂正の申立についての裁判は、原判決をした裁判所を構成した裁判官全員で構成される裁判所がこれをしなければならない」ことになっている(刑訴規則二七〇条一項本文)。これは、判決後間もなくなされる判決訂正の申立のごときは、その判決に関与した裁判官だけで処理せしめるのが実際の便宜にかなうところから、この例外が認められたものと思う。

だが、この例外にはまた例外があって、「その裁判官が死亡した場合その他やむを得ない事情がある場合」には、その判決に関与した裁判官の全員構成でなくとも、これらの差支えの前関与者を除いた構成でも、判決訂正の決定がなされ得ることになっている(刑訴規則二七〇条一項但し書)。これも、実際の必要から認められたもので、前記例外(一項本文)の例外である。

さらに、この例外の例外(一項但し書)に、また例外が定められている。すなわち、同条二項には、「前項但書の場合にも、原判決をするについて反対意見を表示した裁判官が多数となるように構成された裁判所においては、同項の裁判をすることができない」と定められている。その主旨とするところは、原判決で反対意見を表示した裁判官が多数となるような構成では、原判決が判決後間もないときに取消または変更されることをおそれたためであろうと思う。なぜならば、かかる構成では、裁判官がその反対意見を変更しない限り、そして判決後間もないときにはその反対意見を変更しないのが通常であって、反対意見が多数を制することになるからである。

さて本件の場合は、最高裁判所始まって以来最初の事例として、丁度この二項の場合に該当する。すなわち、前判決で七裁判官は、破棄の反対意見を主張し、八裁判官は棄却の多数意見であったが、その後棄却意見の霜山、井上両裁判官は退官したので、前記一項但し書によって、この両者を除いた前判決の関与裁判官で構成すると、それはてっきり二項にいわゆる「原判決をするについて反対意見を表示した裁判官が多数となるように構成された裁判所」に該当することになるわけである。

そこで、本件判決訂正の申立についての裁判は、どう処理さるべきかが問題となる。

あるいは、かかる場合には裁判所の構成ができないから、裁判をすることはできないし、また裁判をしなくともよいと考える者があるかも知れない。しかし、法律が人権擁護のたてまえから判決訂正の申立を許しておきながら、単に前記二項にかかげる理由をもって裁判をしないでもよいとするわけにはいかない。裁判はしなければならぬと思う。

だとすれば、その裁判はいかなる構成の裁判所ですることになるか。二項の事由が存する場合には、判決訂正の申立の裁判ができないというのではなくして、一項の裁判すなわち前判決関与の裁判官だけの構成でする裁判ができない趣旨と解するを相当とする。一項の裁判の仕方は、前にいったようにすべて裁判は現在の裁判官全員の構成でする本則の一例外に過ぎないのであるから、本件のように一項の裁判の仕方が許されない場合には、本則に立ちかえって現在の裁判官全員で構成される裁判所で裁判することを要するわけである。だから、本決定は、二項の事由が存するにかかわらず、同項が禁じている一項による裁判すなわち前判決関与の裁判官だけの構成によって裁判をしたことは違法であるといわなければならぬ。

裁判官岩松三郎の補足意見は次のとおりである。

いわゆる判決の訂正は刑訴四一五条一項の法文上明らかなように判決の内容に誤のあることが発見された場合に限りなされるものであり、判決の手続に関する誤の如きは訂正の対象となるものではなく、従ってすでに判決書に示された各裁判官の意見の相異により定まった多数意見少数意見の対立をそのままくりかえすだけではここにいう内容の誤を主張するものとはならないのである。それはこの制度が上告裁判所の判決は最終審の裁判としてもはや上訴による是正の途が存在しないことを考慮して、念のため、その判決自体内容上誤のあるか否かを再検討すべき機会を与えんとしたに過ぎないものであって、手続を新たにして事件を全面的に審理し直すことを目的とするものでないことに因るのである。この事は同四一六条で訂正の判決が弁論を経ないでもなし得ることを規定しているのに徴しても明らかであろう。そして刑訴規則二七〇条一項において、この申立についての裁判が「原判決をした裁判所を構成した裁判官全員で構成される裁判所」によってなされなければならないことを規定しているのもまたこれがために外ならない。

それ故、判決訂正の申立においては、原判決が刑訴四〇八条を適用して口頭弁論を経ないでなされたことを違法とするような判決手続に関する事項はたとえその主張が理由あるものであっても問題たり得ないものといわなければならないのである。のみならず、本件訂正の対象たる原判決は、その判文上明白であるように、いわゆる七対八の多数決でなされたものではない。換言すれば、わずか一人の裁判官の意見の帰趨如何でその結論が左右されたものではないのである。元来最高裁判所においても、下級裁判所と同様、裁判所の裁判と裁判官の裁判とは区別されている。いうまでもなくそれは合議体たる最高裁判所のなす裁判と裁判長、受命裁判官等一人の裁判官のなす裁判との区別であるが、合議体がなす裁判という以上裁判という法律判断--小前提たる事実を確定し、それに大前提たる法規を適用し、その結論を抽き出すまでの一切の論理の推究を合議体自身がするものでなければならない筈である。合議体の裁判と称えながら、裁判の理由は合議体を構成する各裁判官の意見を生のままに存在することを認め、ただその結論に従って多数決により最高裁判所の裁判が定まるというのでは、最高裁判所においては合議というものは裁判の理由に関する限り各裁判官が各自の意見を確定するために評議するだけで、採決はかくして形成された各裁判官の意見の結論のみについてなされることとなり、その結果は理由を離れた結論の存在を認め延いては裁判所が裁判の理由を持たずただ結論(主文)だけの裁判をなし得ることを肯定することとなるのである。もしかくの如きことが肯定されるならば、最高裁判所の判決においては裁判所としての理由を説示し得ない場合を生じ殊に、最高裁判所が下級審の判決を破棄差戻した場合において下級審を拘束すべき破棄の理由が存在しないという事態を惹起することもあり得るのである。それ故最高裁判所においても判決裁判所を構成する裁判官全員で案件の判断をなすに必要な前提たるべきすべての理由の一々につき論理の法則に従い、先決問題たるべきものの順序によって評議し全員一致の意見が得られなければ多数決によってこれを決し以て終局の結論に到達しなければならない。従ってある前提問題について多数決によって否決された少数意見の裁判官もなお裁判所の構成員として多数決に拘束され、裁判所の意見と定められた見解に立脚して爾余の問題の合議に当るべき義務があるのであって、少数意見として裁判所の意見とならなかった自己の見解を保持し、その見地よりすれば爾後の合議事項の如きは問題とするに足りないというような意見を述べたり若しくは合議に関与することを無意義であるとして合議そのものえの関与を拒否することは許されないのである。少数意見の裁判官がかかる義務を負う所以のものは、裁判官として合議裁判所を構成して事件につき裁判をなすべき義務を負うことに由来するものである。それはかくすることによってはじめて合議裁判所としての裁判が形成され得るからである。もし少数意見の裁判官が自己の意見を固執して爾後の合議に関与しないことが許されるならば、それは裁判の一部が判決裁判所を構成すべき裁判官全員の関与なくしてなされることを認容するものであるばかりでなく、裁判所の構成員につき定足数の定めある最高裁判所においても、時にはその定足数を欠くに至り遂に裁判をなし得ないようなことを招来することもあり得るのである。いわゆる合議なるものは合議体を構成する各裁判官が評議することによって衆智を融合結集してその各意見の主観性を除去し客観性ある裁判所としての判断を形成せんとするものであり、単に形式的に各裁判官の意見を統一し若しくは平均せんとするものではないのである。裁判所法一一条はただ裁判所を構成する各裁判官が合議の結果多数決によってその意見が裁判所の意見とならなかった場合においてもなお自己の意見を少数意見として表示すべき権利と義務あることを規定しただけのことであり、これによって各裁判官の事案に対する所見は結局生のままで明確に表示され得るのであってこの規定あることを事由として少数意見の裁判官が多数決に拘束されその見解に立脚して爾余の合議に関与する義務を負うべきことを否定すべきではない。

本件訂正の対象たる原判決も右に述べたような方法で合議され成立したものである。すなわちその判文によって明確にされているようにその裁判の大部分は全員一致の意見により成立しているのであり、ただ実体法の点において刑法一二七条の解釈及びその合憲性につき一〇対五の、また手続法の点において刑訴四〇〇条但書の解釈につき一一対四の多数決によってそれぞれ裁判所の見解が確定されて成立しているのであって決して七対八というような僅少の差の多数決によって決せられたものではないのである。それ故、霜山、井上両裁判官の退官にも拘わらず原判決関与の裁判官のみで裁判所を構成しても、さきに反対意見を表示した裁判官が多数となるようなことはないのであって刑訴規則二七〇条二項の問題を生ずる余地はないわけである。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎)

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